東京地方裁判所 昭和36年(ワ)8812号 判決 1963年4月19日
原告 野田敬
同 野田玲子
右両名訴訟代理人弁護士 安藤一二夫
被告 野田利朗
右訴訟代理人弁護士 長谷川藤三郎
主文
原告らの請求を棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
≪省略≫
理由
その名下の印影が被告の印によるものであること争なく、その余の部分(公証人の確定日付を除く)は証人野田春子の証言及び被告本人尋問の結果により被告が作成したものであること明らかな甲第一号証(覚書)の記載によれば被告は昭和三六年三月二八日野田春子に対し被告所有の東京都中野区桜山町五〇番地所在の土地建物一切はこれを原告らに贈与する旨約したもののように見える。しかしはたして真実そのような契約が成立したものというべきかどうかについては、事のそこにいたる経緯と背景について考察し、当事者の行為に即してその真意を検討するのでなければよく決し得るところでない。
けだし本件口頭弁論の全趣旨によればこれらの物件は被告の有するほとんど全財産であつて(被告は第二目録(三)の建物は対象外であるというが、右書面のみからはこれを除外したものと解することはできない)、これをなんらの理由なく他に贈与するはずはないからである。
よつて按ずるに、被告が昭和一二年一二月野田春子と結婚し、原告らがその間に生れた子でいずれも現に大学に在学中であること、被告が従来勤務地に居り、昭和三二年ごろからは栃木県河川課長として宇都宮に居所をおき時々本件物件所在地にある妻子のもとに帰るという生活をつづけていたこと、被告は昭和二六年ごろ中野区城山町にあつた土地建物を処分して別紙第一目録記載の土地三筆を買い求め、内同目録(二)(三)の土地は原告敬名義に登記したこと、その後被告はこれらの地上に順次建築して別紙第二目録記載の各家屋を所有するにいたり、昭和三三年五月ごろから春子は同目録(二)の建物を使用して旅館「早香」を経営して来たが、その後被告が右旅館経営を喜ばず、春子に対し「旅館をやめるか、離婚をするか」の二者択一を求めるにいたり、ついに昭和三六年三月二八日にいたつたものであることは当事者間に争なく、前記甲第一号証、被告本人尋問の結果成立を認めるべき乙第一号証、証人野田春子、篠原双葉の各証言及び原被告各本人尋問の結果に本件口頭弁論の全趣旨をあわせれば次のように認めることができる。被告は春子の営む旅館業が被告ら夫婦の円満を害するものと考え、昭和三五年秋ごろから春子に旅館をやめるようにすすめていたが、春子は旅館はまだはじめたばかりでこれからが利益の上がる時期であり、子供らの学資もいるからとていつこう止めようとしなかつたので、ついに昭和三六年一月ごろには被告は「旅館をやめるか、離婚するか」との二者択一を求める強い態度に出で、同年三月二一日には春子に対し「同月二七日に帰宅するからその時最後の返事をせよ」と申し向けた。右二七日夕方被告は帰宅するやいきなり旅館玄関の外灯をステツキでたたき割り、部屋の電気のスイツチを切るなどの乱暴を示した。同夜春子は被告に対し旅館の方はやはり継続したい旨述べたところ、翌二八日早朝被告は、春子と前夜来相談のため春子によばれて来泊していた春子の実兄の妻篠原双葉の寝ているところへ来て、泣きながら、子供達をよろしく頼む、自分は亡父の形見の時計一つもつて故郷の三河へ帰る、財産はみんな子供において行くといつたので、春子は被告の態度の激変に驚いてぼう然とし、双葉は両人に今一度話し合うことをすすめ、被告と春子は双葉や原告玲子のいるところでさらに話し合つたが、その時も春子はやはり旅館をやめないというので、被告はやめなければ別れるより仕方がない、財産のことは一筆書いておこうといつて自らありあわせの紙に覚書として一拙者所有にかかる東京都中野区桜山町五〇番地の土地建物は一切野田敬及玲子の所有とする事に異議はありませんので後日のため一札差上げます」と認めて署名押印して棚の上に置き、そのまま皆に別れを告げて宇都宮に去り、右覚書は被告の立ち去つた後皆で読んでみて前記文言を発見した。
しかるに同年四月中ころ被告は区役所出張所に改印届をするとともに自分以外のなんびとが来ても印鑑証明書を発行しないよう頼み、原告らが任意に登記ができないようにしたため、原告らは印鑑証明がとれないので、同年五月九日右覚書に公証人の確定日附を得た。そして同年一一月には被告は春子を相手どり東京家庭裁判所に離婚の調停を申し立てるにいたつたという次第である。右認定に反する証拠は採用しない。以上の事実によつて考えれば被告は春子が旅館業をやめれば夫婦仲も円満になるものと考えており、「旅館をやめるか、離婚をするか」の二者択一を求めてもその真意は最後まで春子が旅館をやめ、夫婦の円満を求めてくれるよう願つており、その強い願望が二七日夜の乱暴にもあらわれているのであつて、それが結局春子の依然たる拒否によつて打ちくだかれ、被告としては絶望感におちいつた末、従前の態度を一変してすべて財産をおいて故郷に帰るなどというにいたつたのであつて、その前後の事情に照せば、これひつきよう一時の激情にかられ、自暴自棄的ないし自己陶酔的感傷におちいつて、不用意に一方的に誇張した表白をしたものであり、この種財産の処分をするにふさわしい悟性的自覚的思惟の所産ではないと認めるのが相当であり、すくなくともこれによつて従来の結末を最終的につけ、春子と直ちに離婚にふみ切り、原告らとの間も解決する意味で今すぐ本件物件等を無条件で原告らに譲渡するという処分行為についての確定した意思の表明たる趣旨のものではないというべきである。これを要するにこのさいにおける被告の本件物件についてした言論はいまだ法律行為の要件たる意思表示そのものを構成しないと解するのを相当とする。
被告が右の後いくばくもなくして改印届をし、自分本人以外なんびとにも印鑑証明書を発行しないよう所轄区役所出張所に求めたことは、一見被告の行動に奇異な感あらしめるようであるが、この点の被告本人の供述によればそのころ春子が被告の実印をさがしているように思われたので不祥事を未然に防止するつもりでしたというのであり、必ずしも被告の心変りというほどのものでなく、前認定にむじゆんするものではなく、むしろその後も被告が離婚調停申立までは時々帰宅して本件家屋に出入していたこと旧の如くなることと相まつて、前記三月二八日の被告の行為がその言葉の表現にもかかわらず最終的処分行為を意味するものでないことを裏書きするに足りる。その後の被告の離婚調停申立はあたらしい事態に刺戟されたものなること被告本人尋問の結果により明らかで、もとより前認定を左右するものでない。
はたしてしからば昭和三六年三月二八日被告と春子との間に本件物件を原告らに贈与する旨の契約(第三者のためにする契約)は成立したものということを得ず、右契約の成立を前提とする原告らの本訴請求は爾余の点について判断するまでもなく失当である。よつてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条第九三条を適用して主文のとおり判決する。
(判事 浅沼武)